2011年6月6日月曜日

瀬々敬久とヘブンズストーリーと



9章、上映時間4時間38分にも及ぶ大巨編。監督は瀬々敬久
ベルリン国際映画祭で、批評家連盟賞と最優秀アジア映画賞W受賞。芸術選奨映画部門文部大臣賞受賞。キネ旬3位、映画芸術1位、高崎映画祭4冠。











京大西部講堂の脇の朽ち果てた木造長屋のクラブボックスの一室に京大映画部はあった。
隣室は山岳部で、ここは学生運動の活動家の巣窟みたいなとこだと噂されていた。木造長屋の壁面はいわゆるトロ字で様々な扇情的政治的な落書きがなされていたが、もしかしたらこれはわたしが勝手に創り上げた幻想なのかもしれない。とにかく1980 年前後の京大映画部というのはそういう雰囲気のなかにあった。で、わたしは2−3年間映画部にいた。ように思う。確かな記憶はない。そもそも映画部である ことの証明などなにもない。映画部の汚い部屋に出入りしていれば映画部員とみなされただけのことかもしれないし、真剣に映画部の活動をしていたものからみ ればそんなやつらは映画部員ではなかったのかもしれない。だからわたしはあるものたちからみれば映画部員ですらなかったのかもしれない。しかし、映画部の 真剣な活動というのもあやふやなものでそんなものは存在すらしていなかったようにも思える。先輩後輩の関係など皆無だったように思えるし、どうしてもわた しの記憶のなかに映画部の先輩という人の姿は甦ってはこない。そんな人いたっけ?映画部で覚えているのは、瀬々と大宮とアラタと朝倉だけ。朝倉は同じ医学 部だったからよく覚えているけど、映画部はすぐに辞めて、ベトナム人の留学生と同棲を始めて、結婚して、卒後米国に渡って臨床医を20年間近くやって、日 本に戻ってからは病院勤務の後、大都会の真ん中で大きな自分の医院を開業して活躍している。大宮は、銀閣寺近くのラーメン店天下一品の店長をしているとい う噂。以前、その店にラーメン食べにいったら瀬々の映画に関するチラシが店内に貼りまくられていた。あまりにラーメン店としては異質な空間がそこにあっ た。アラタはどうしているのだろう?
瀬々は一番よく覚えている。いや、瀬々がある意味一番有名になったから覚えていると錯覚しているだけのことかもしれない。わたしと瀬々は同郷だった。しかし、 わたしは小学校低学年で大阪に引越し、大分の思い出もわずかなものしかないが、瀬々は高校を出るまで大分の国東半島の町で育ったのだ。山崎ハコも大分出身 だ。瀬々が高校時代に山崎ハコの音楽に魅入られたようにわたしも高校時代に山崎ハコのファーストアルバムを聴いて、驚愕し涙した。瀬々が初期の映画で題名 に拝借した森田童子の音楽をわたしも浪人時代に聴きまくった。瀬々が映画を撮ろうと決心する契機となった映画「青春の殺人者」をわたしも京一会館で観て熱 狂した。長谷川和彦はあの頃のわたしたちには共通のヒーローだったにちがいない。映画「太陽を盗んだ男」は永遠の神映画だ(こんな表現はあの頃にはなかっ たけど)。1980年、大宮が8ミリ映写機を購入し、それを機に、瀬々とわたしは別々に自主制作映画を京大11月祭に向けて、撮り始めた。 わたしは理学部の野上と文学部の杉山さんと雑賀さんといっしょに。今考えると拙い定型的な惨めな作品だった。自分には映画を撮る才能がないことを痛感し た。そんなわたしに最後までつきあってくれた野上は、今は滝を鑑賞することが趣味という変な某国立大学理学部教授になった。杉山さんは、その後、罪つくろ う(現在の辰巳琢郎)主催の演劇集団卒塔婆小町で主役をはって、それから劇団内結婚をして、米国に渡って今は東京にいるらしい。雑賀さんは、卒後共同通信 に入社したという噂だったが、数年前に新聞で雑賀さん署名の記事を読んだのを覚えている。なんか脱線してしまった・・・・。
瀬々 の8ミリ映画のできも芳しくはなかったように思う。いや、そのはずだ。いまだにわたしが映画監督瀬々敬久を信用できないのはおそらくその初期体験があるか らだと思う。瞠目するような映画の才能に触れたという記憶は皆無だ。瀬々は映画に選ばれた天才でもなんでもなく、自分といっしょのもがき苦しんでなんとか 駄作をつくりつづける凡庸な若者でしかなかった。
わたしの記憶のなかの瀬々はいつも笑っていて、わたしには優しかった。大宮とアラタはちょっときつかったけど瀬々はいつも優しかった。ありがとう、瀬々。
映画部をやめてから瀬々がどうなったかまったく興味がなかったが、90 年過ぎに米国へ留学した時、ロスの日本人街のレンタルビデオ屋で、たまたま借りたビデオが痴漢電車シリーズ。何も知らないまま観始めるとそこに現れた「脚 本 瀬々敬久」のクレジット。びっくりした。うれしかった。あいつもがんばってるんだと勝手に最前線で戦っているような気になった。この時、わたしもちょ うど「螺旋の肖像」が新潮新人賞を受賞し、「メタリック」の長編完成のため戦っているとこだったので。その後、帰邦して、いろいろ調べてみると瀬々がピン ク映画監督四天王として活躍していることを知った。で、瀬々監督の作品をいくつか鑑賞した。どれもつまんなかった。瀬々、昔といっしょやん、大丈夫か?な どと勝手なことを思った。ダメ押しは、「moon child」と「感染列島」。メジャーへ進出したのは喜ばしいことなのかどうか?これらの作品の質は、わたし的には疑問符いっぱいだった。特に「感染列 島」は初めの30分で観ることを諦めた。それほどつまらなかった。瀬々よ、どこにむかうんだああと訝ったが、所詮他人事。大森一樹のようにはならないでね と願うのみだった。
で、漸く、「ヘブンズストーリー」。
沢山賞をとって、映画芸術でも1位になって、瀬々快心の一作か!と期待して、京都シネマの上映初日に観に行きました。瀬々の舞台挨拶もあることだし。
終 盤の山崎ハコが演じる役のカタストロフまではすばらしいできでありました。瀬々すごいよ瀬々と独りごちてました。でもね・・・・最後の1時間。前記のカタ ストロフからの後日談というか続きは観るに耐えなかった。なんでこんなことを永遠とやり続けるのだろうと退屈しながら早く終われと思いながら鑑賞してまし た。でも、これが瀬々の瀬々たる真骨頂なんだなと、大して瀬々のことを知ったわけでもないのに納得しているわたしがいました。わたしをして「これは歴史に 残る神映画だ!」と言わしめる作品を瀬々がつくってくれるわけがないのです。瀬々はそんな凡庸な作家ではないのです。園子温がどうしてもB級の渦に抗えないように、瀬々は京大映画部を侵食していたあの時代錯誤へ突入していかざるをえないのでしょう。そんな瀬々が好きなのはいうまでもありません。わたしが満足するような映画を瀬々がつくってしまっては、それは瀬々自身に対する冒涜に他なりません。でも、とにかく「ヘブンズストーリー」は現時点においての瀬々の最高作品であることは間違いないと思います。こういう作品を50歳で撮れるということは今後 にも期待が持てます。当時、瀬々やわたしが憧れた大森一樹が結局最高作は「ヒポクラテスたち」で終わったしまったのと大違いです。
「ヘブンズストーリー」上映終了後、瀬々の舞台挨拶があり、その後、瀬々の著書をかれのサイン入りで販売するというのでわたしは購入しその時、30年ぶりに瀬々と対面し言葉を交わしました。
「映画部の◯◯」
「おおっ、俺なんかの映画を観に来てくれてありがとう」
「最後の一時間はいらんよな」
瀬々、一瞬むすっとしながらもすぐ笑顔で
「アラタも来てるぞ」
「いや、いいわ」(何がいいんだかわからないがそう答えてしまったわたし)
「別唐晶司の作品も全編無料で読めるんで・・・あれこれ」(しょうもないことを喋りはじめたわたし。実はかなり昔にあるイベントのことで瀬々に連絡をとり、その際に「メタリック」を送っていたのでした)
瀬々は優しく笑っていた。
森田童子の曲が静かに流れ始めた(敢えて曲目は書かない)。ようにわたしには思えた。

「ヘブンズストーリー」は、あらかじめ傑作になることを放棄した瀬々の最高作に違いない。

Cinemascapeにも作品評を書きました。 http://cinema.intercritique.com/user.cgi?u=1349 )