昨日、京都大学百周年時計台記念館で講演会があって、そこで講演してきました。京都大学老年科主催の公開市民講座で年一回開催しているものです。京大老年科
の科長がわたしの同期で、その伝で講演を依頼されました。わたしの講演題名は「目の老化とその最新治療法」というまあ平凡なもので、これは聴衆が主に老人
ということを考慮してそうしました。普通に代表的な目の老化およびそれにともなう病気について話し、そしてその最新治療法について解説しました。しかし、
最後には、いや最後にわたしが一番言いたかったことを無理やりねじ込みました。
それはつまり、「わたしたちはなかなか死ににくくなっている」という現実です。
老
化に対する医療側からの対策としては、まずひとつとして、「サイボーグ化」があるということ。これはわたしの小説の主題とも関わってきます。このサイボー
グ化の最も現実的なものとして眼内レンズがあげられます。現時点では、白内障がある患者さんに白内障手術を施行し、そして眼内レンズ(人工レンズ)を移植
しております。これまでは、そして現時点においてもその眼内レンズの大多数は単焦点レンズといわれるもので、ある一定距離にしか焦点が合わないもので、つ
まり遠くも近くも眼鏡なしでよく見えるということは不可能で、どちらかを選択して、たとえば遠くをよく見たいと選択した場合は近くを見る場合は近用の眼鏡
を使用しなくてはいけないというものです。しかし、数年前から多焦点眼内レンズといわれるものが利用できるようになり、これは保険外診療になりおおよそ片
眼50万円で移植されていますが、はっきりいって見え方自体がもうひとつのようで、大々的に広まるというまでには至っていません。しかし、もっと見え方がよくなって値段も安くなったらこれは爆発的に広まるかもしれません。なにせこの多焦点レンズを移植すれば老眼そのものが克服されることになるのですから。ですから白内障がなくても、老眼鏡を使用するのが不便だと思う人は皆、この多焦点眼内レンズを移植することを望むようになるでしょう。そし
て、そのような時代はもうすぐそこまで近づいてきています。この多焦点眼内レンズは、低下した機能を補うどころか元々の機能をさらに上回る機能を持ったも
のとも解釈でき、それはつまり人間のサイボーグ化に他ならないのです。SF的な想像力を働かせれば、この眼内レンズに現在のスマートフォンのディスプレイ
機能を埋め込むことなど容易なことのように思えます。おそらくいずれ実現するでしょう。その時、わたしたちは手に持ったスマートフォンのディスプレイを覗
き込む必要なく、あらゆる情報をまさに眼前で見ることができるのです。で、このような人間のサイボーグ化としては他にも人工内耳、人工心臓、ステント、
ペースメーカー、人工関節等あり、特にステントやペースメーカーを人体に埋め込んだ人は加速度的に増加していってます。ということは、心筋梗塞などの心疾
患で死ねる人が減少していっている(正確にはたとえば75歳時点での心筋梗塞による死亡者数割合は減少していくものと思われます)。
コンパクト透析器ができれば腎疾患でも死ねない。
サイボーグ化がどんどん進めば、わたしたちは同時にまさに「なかなか死ぬことができなくなっていくのです」。残されるのは、癌か脳梗塞でしょうか。もし癌
が克服されたら、残るは脳梗塞のみ。しかしこれも脳内血管ステントの開発状況を見るとダメかも(つまり脳梗塞は克服され、なかなか死ねないというこ
と)・・・。
常々
思っているのは、「サイボーグの憂鬱」という小説を書いてみたいということ。そうです、死ねなくなったサイボーグの憂鬱な状況を書いてみると面白いのにと
思うのですが(筒井康隆的なものを挿入しようと思えば認知症になったサイボーグが暴れまくって都市を破壊していく様を描けばいいかも)、もう誰か書きまし
たっけ?あっ、大友さんの「老人Z」がそういう感じだったような。
そ
れから老化への対策として再生医療もあげました。しかし、この再生医療に対してわたしが否定的であることは以前に述べました。それはタイムマシーンが結果
的にはリーディング・シュタイナーを地獄に堕とすことと同じです。でも講演ではそんな難しいことは話してません。アンチエイジングへの否定的なわたしの私
見を述べたうえで、サイボーグ化と再生医療とアンチエイジング等の様々なすばらしい医療(悪魔の仕業!)によって、わたしたちはますます死ににくくなって
いますよということと今後は「どうやって死ぬかということが切実な問題になってきますよ」ということを結論として述べました。その時、会場からはちょっと
した笑い声が漏れました。よかったです。
で、
わたしの後の山折先生の講演(これが今回のメインでわたしは前座です)では、どうやって死ぬかということに対して、西行法師の断食の事例を出され、断食に
よって自然死に近い理想の死が得られるのではないかということを話されておられ、これはとても貴重な意見としてわたしの脳髄を刺激しました。山折先生がこ
の西行法師の例を出したのは、どちらも幻冬舎新書ですが、「死にたい老人」(木谷恭介)、「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(中村仁一)という本がベ
ストセラーになっており、しかもどちらもが文中に山折先生の西行法師の断食の話を引用しているとのことでした。「死にたい老人」の木谷さんは実際に断食を
して死のうとしたのですが結局はダメだったということです。でも確かに断食はいい死に方かもしれません。でも気力がいるような気もするのですが。
多くの老人(特に80
歳を超えた)が「もうそろそろ死にたいなあ」と思っているというのが事実です(少なくとも医療に関わっている者たちの多くはそう理解していると思いま
す)。で、そう思うのが自然の摂理に合っているのも確かです。いつまでも生きたい生きたいと思うなんておかしいです。100歳を超えてもなお活動的な日野
原重明先生(この人、京大医学部卒です)は異常です。多くの方は100歳が近づくと「もういい加減に死なせてくれえ!」と願っているはずです。
う
まい死に方はないものかと思考すること自体が欲望にまみれた人間の証みたいなものですが、まあ、とにかく適当な時期には死にたいと思っていることは自分と
してはあり得べき姿だとは思います。不老不死を願っている奴がとんでもない馬鹿(いや、おそらく凡庸な馬鹿)に違いないのは確かです。