2014年8月8日金曜日

マスコミと科学界の不幸な関係

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火曜日午前のオペがやや早く終わったので、締め切り間近の依頼原稿の執筆にとりかかろうとオペ室からいそいそと出ようとしていたわたしの前に同期の麻酔科部長が現れ、わたしの目の前にiPhoneの画面を差し出した。
そこには、「笹井」という文字と「自殺」という文字が見えた。
一瞬にしてわたしは事態を理解したが、それでも驚愕するわけでもなく、なぜか淡々としていた。
なぜか?
笹井くんと自殺というのは、最もかけ離れたまったく想像もできない文字の組み合わせに違いなかったからだと思う。
わたしにとって笹井くんは同期のなかでも最も自殺とは縁のない人だと思えた。というかそんなこと一瞬として脳裏によぎることはなかった。
ある意味、今回の件で汚点をつくってしまったが、この失地からいかに甦ってくるか、その凛々しい笹井くんの姿を想像するだけだった。
正直いって未だに笹井くんの自殺を素直に受け入れることはできないのであるが、それでも本当にそうならそれは笹井くんをして自殺させる状況というのはいかに苛烈なものであるかと想像し、同じ状況に陥ったら自分ならどうなっていたのだろうと考えるとやりきれない思いに浸るのであった。

すべての不幸のはじまりは、あの最初のSTAP細胞の会見にある。

あの過剰に演出された会見で、理研は、笹井くんは、小保方さんはマスメディアと大衆の渦の中に深く深く足を踏み入れてしまった。
そこは賞賛がある一方、嫉妬や毀誉褒貶にまみれたどす黒い世界ともいえる。
ちょっとした出来事で、評価が一変してしまうこともしばしば。
そして、その手のひら返し、しっぺ返しに見事に彼らははまっていく。

医師としてまた昔は研究していたものとして、論文の部分的コピーなんか普通でしょっ、方法論の記述ミスもよくあることやん、論文自体の結論が間違っていて再現実験ができないなんて普通やん、今まで同じ追試実験やって同じ結果が得られないって数えきれんくらいあったわ、普段、病院で抄読会やっててもまず論文読んで話すことはこの論文メイクやろとかかなり盛ってんなとか、そもそも発想が間違ってるわとかそんなんばっかりでまず否定から論文読みは始まるというのが王道やろ、臨床医学の論文なんてその成績のよさを信じてやった手術法がとんでも手術法で現実的にその手術法でかなりの合併症を被った患者もいるで、で、それは世間に明るみに出ることなく闇に葬られていく、そんなん沢山とは言わんけどけっこうあるな、とか、とか。
で、この記述は同業者にはある程度の同意を得てもらえると思うのだが、それ以外の人たちが読むともう怒り心頭、許せん、謝罪せよ、告発じゃ!となるのは最もだと思う。

正直にいうと、今の今でも笹井くんのどこが悪かったのかまったくわからない。かれが捏造したなどとはまったく思えない。不適切な関係?まさに笑止千万、あり得ない。かれは自分に与えられたタスクを忠実に実行し、それはネイチャーアクセプトという形で花咲いた。
しかし、あの過剰演出が、後々・・・・。
ヒーローとヒロインになるはずだった2人は見事に大衆とマスメディアによって地に引きずり落とされた。そしてある意味の公開処刑にあわされた。

公開処刑。
ちょっと言い過ぎかもしれないが、当人たちにとってはそれ以上の過酷なものに違いない。

しばしば新聞やTVに「新たな治療法が開発される!」「難病ももうすぐ治る!」などの文言が踊ることがあるが、わたしなどはそれらを読む見る度に、どうせまた1年後には消えている糞実験だろ、とか、どうせまたいろいろな作用機序がわかって迷宮に陥っていく類の成果やんけ、とか言って、罵詈雑言を並べて終わるのが常なのだが、世間はそうでもないのだ。小さな他愛もない成果に一喜一憂する人たち、それもかなり多くの人たちがいるというのも現実なのだ。

今回、特筆すべきは、ネットの威力でもあった。データの捏造を暴いていったのはすべてネット経由であった。なにをしてあのような暴露作業がなされるのか?その動機には興味津々ではある。暴露をしていった人たちの心の闇のようなものにも触れてみたい気もする。まあどうせ無理なことなのだが・・・。

笹井くんはマスメディアに殺されたという人もいる。そうかもしれない。
しかし、わたしはマスメディアというのはそういう類のものだと思っている。そしてそうでなければいけないのかもしれないと思っている。
変えるなら科学界のマスメディアへの対応だと思う。マスメディアを利用してその業績を喧伝することも大切かもしれないが、もっとやり方を変えないと同じような犠牲者(科学者)が出るのは確実だ。

佐村河内氏の嘘が暴かれた際に、わたしも含めて多くの医師も科学者もざまあ!といってその公開処刑を楽しんだのだ。しかし、音楽関係者の一部では佐村河内氏のやり方のすべてが間違っているわけではなく、プロデューサーとしての才能はあると擁護する人もいたのは確かだ。住む世界が違えば事象の見え方も変わってくる。当たり前のことだ。

ああっ、とにかくわたしもあなたもそして多くの人が、ネットを通じて、マスメディアを通じて公開処刑が行われるのを楽しみにしている。 これは現代の病理でもなんでもない。おそらく昔からある人間の根源的な欲求だと思う。ただし、身内が公開処刑の対象になった時は悲惨であるに違いない。その時だけ自分は被害者だとうそぶくことは可能だが、それよりも他の局面では自分も公開処刑の観覧者だということをもっというなら間接的な加害者であるかもしれないということを認識しておくべきかもしれない。

書いていて何が言いたいのかよくわからなくなってしまった。
とにもかくにも笹井くんの死に、合掌。
あまりにも大きな才能を世界は失ってしまった・・・。